三代忠勝 | 1622 | 元和8年 | 10月、酒井忠勝は信州松代(10万石)から庄内(14万8千石)藩主に任ぜられた。 |
1624 | 寛永元年 | 郡代柴谷武右エ門が荘内地区を八郷に分け、1郷ごとに郷倉を設けて貢米を集め、藩士の禄米には、新たに米券を発行した。我国初めての試みという。 | |
1626 | 寛永3年 | 6月、フランシスコ会のパァデレ・ディエゴ・サンフランシスコ管区長が、酒田に着き、伝道した。信者は鶴岡に約50人、酒田に約30人いたらしい。 | |
1629 | 同6年 | キリシタン大弾圧。 | |
1632 | 同9年 | 加藤清正の子,熊本藩主加藤忠広が改易され、荘内藩主にお預けとなる。 忠勝は現在の櫛引町丸岡1万石を与え、受け入れた。 |
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1641 | 同18年 | 春日局が大日坊に使し、将軍家光の病の平癒祈願をした。 | |
1647 | 正保4年 | 酒井忠恒(忠勝三男)村山左沢と飽海田川から松山藩2万石を立てる。 10月、長門守の陰謀によりお家騒動が起きるが、忠勝の死により水泡に帰した。 |
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四代忠当 | 1648 | 慶安元年 | 羽黒山第15代別当の天宥法印は、参道半里に渉り2446段の石段と沿道の杉並木を完成。 |
1649 | 同2年 | 酒井忠解(忠勝七男)大山藩1万石の建設を幕府より許される |
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1651 | 同4年 | 由井正雪の事件の際、京都で旗上げ計画の肥前浪人熊谷三郎兵工は逃れ来て、鶴岡市三光町の宝林寺に隠れていたが、やがては荘内藩士に探知され、自刃して果てた。 | |
五代忠義 | 1661 | 寛文元年 | 荻野六兵衛安重、『荻野流』を創設 |
1668 | 同8年 | 大山藩主忠解が死去。嗣子がなく領地没収、幕領へ。 | |
六代忠真 | 1681 | 元和元年 | 百姓 半兵衛が3カ村を代表し、荘内に下向中の幕府巡検視に、郡代高力忠兵工の悪政の数々を目安に書きならべ差し出した。 |
1684 | 同4年 | 庄内藩、江戸浅草米蔵の防火警備の命を受ける。 | |
1686 | 貞享3年 | 「諸国鉄砲改」(鉄砲禁止令)がでる | |
1689 | 元禄2年 | 松尾芭蕉が荘内を吟遊。 | |
1690 | 同3年 | 正月、黒川能が初めて鶴岡城中で上演された。 | |
1691 | 同4年 | 鶴岡荒町出身の中村八郎兵エ正栄が、算法書『絵入・長崎無尽物語』を著わした。 | |
1699 | 同12年 | 赤川端の菅原に初めて芝居小屋ができる。 | |
1701 | 同14年 | 鳥海山の大物忌神社再建をめぐり、秋田県矢島藩との間に社領争いがおきた。 | |
1704 | 宝永元年 | 幕府の実地検分により荘内藩が勝利。 | |
1719 | 享保4年 | 藩の命で鳥海山、月山、金峰山の高さを測定。 | |
七代忠寄 | 1731 | 同10年 | 忠真が江戸で死去(61歳)。忠真に子供が無かった為、支藩の松山藩から養子を迎え家督相続。 |
八代忠温 | 1766 | 明和3年 | 忠寄が没し、忠温が家督相続。 |
1767 | 同4年 | 東北(特に弘前・青森)一帯で大雪、ついで大地震にみまわれる。 | |
九代忠徳 | 1767 | 同4年 | 守り役・水野内蔵助(重誠・しげのぶ)、藩政の立てなおしに豪商本間光丘を登用 |
1781 | 天明元年 | 本間光丘、荘内藩に負債整理計画を提出。 | |
1783 | 天明3年 | 天明の大飢饉。津軽、南部から食に飢えた放浪者が流入。 | |
1786 | 同6年 | 鶴岡上肴町の皆川重兵エが色絵で草花などを描いた蝋燭を藩御用と願い出て許可。特産 絵蝋燭のはじまり。 | |
1793 | 寛政5年 | 吹浦・今泉・鼠ヶ関に外国船見張所を設置。 | |
1794 | 同6年 | 鶴岡城の大手門前で異国船打払訓練を実施。 本間光丘 泉州堺に50匁と100匁砲各5門を発注、荘内藩に献上。 |
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1798 | 同10年 | 白井矢太夫の農政改革。中老として藩財政建て直しに着手。 | |
1801 | 享和元年 | 鳥海山噴火 | |
1804 | 文化元年 | 庄内大地震。 | |
1805 | 文化2年 | 現在の駅前辺に藩校致道館が完成。初代の学長職は白井矢太夫。 | |
十代忠器 | 1807 | 同4年 | 松山藩士 山本丈右衛門隆由、大阪玉造の荻野流砲術家 坂本孫之進に入門。 |
1808 | 同5年 | 山本丈右衛門 免許皆伝を得、松山藩砲術師範となり、宗家の荘内藩も指導し庄内一円荻野流砲術一色となった。 | |
1811 | 同8年 | 9月12日、総恩寺境内で土屋虎松による仇討ち。 | |
1813 | 同10年 | 久米通賢 鋼輪発火装置を発明 | |
1819 | 文政2年 | 致道館を馬場町に移築。 国友藤兵衛(一貫斎) 気砲を発明。 |
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1830 | 天保元年 | 国友藤兵衛 20連発早打気砲を発明。 | |
1832 | 3年 | 長崎の町年寄 高島秋帆、ゲベール銃をオランダより輸入。 | |
1837 | 8年 | 大塩平八郎の乱。大塩軍、木砲を使用す。 乱鎮圧の功労者 荻野流砲術家 坂本鉉之助俊貞(さかもとこうのすけとしさだ) 荻野流砲術の評価大いに高まる。 |
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1838 | 9年 | 川上寅記信敏 長崎の高島秋帆に西洋砲術を学ぶ (荻野流砲術を坂本鉉之助に師事免許皆伝を得、熊本の松本民次郎に地雷火を学ぶ。松山藩の砲術師範となる。) |
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1839 | 天保10年 | 荘内における最古の魚拓がとられた(日本最古)。 | |
1840 | 天保11年 | 幕府からの酒井家の長岡藩(7万石)への転封命令に対し領民が決起、江戸で訴願。(天保義民) | |
1841 | 同12年 | 転封の中止命令。 | |
十一代忠発 | 1842 | 同13年 | 天保義民騒動の責を負い藩主忠器は隠居、忠発が家督相続。 |
1843 | 同14年 | 幕府に印旛沼疎水の難工事を命じられる。 デリンジャー 小型ピストルを発明する。 |
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1844 | 弘化元年 | 大山騒動。 ロシア船が飛島沖に出現。 |
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1845 | 2年 | 山本鰡蔵隆方(やまもといなぞうたかみち) 坂本鉉之助に師事し免許皆伝を得る。 坂本鉉之助の片腕として大阪で活躍す |
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1848 | 嘉永元年 | 佐久間象山 大砲を鋳造。 飛島沖に異国船出没し、荘内藩で兵を派遣。 |
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1850 | 3年 | 佐賀に佐賀藩、韮山に江川太郎左衛門 反射炉を造る。 | |
十三代忠篤 | 1854 | 安政元年 | 荘内藩に、江戸湾五番(品川)台地警備の下命がある。 |
1855 | 同2年 | 酒田西浜3ヵ所に砲台新設。 幕命により江川太郎左衛門の荻野流と種子島流の門下に各8名を入門させた。 |
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1859 | 同6年 | 函館のロシア領事館員乗船のジキッド号、飛島の勝浦港に寄港し、島内を視察。蝦夷地(北海道・樺太)の警固を命じられる。 | |
1863 | 文久3年 | 清川八郎江戸で暗殺。 庄内藩主酒井忠篤、江戸市中取締を命ぜられる。 |
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1864 | 元治元年 | 庄内藩 長州征伐の御旗本先手を命ぜられる。 吹浦村海禅寺寛海和尚、諸霊供養と海上の安全を祈り22体の羅漢の造仏に着手。 |
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1866 | 慶応2年 | 『丁卯の大獄』が発覚。 | |
1867 | 同3年 | [大政奉還] 庄内藩兵、江戸薩摩屋敷を焼き打ちにする。 |
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1868 | 同4年 | 戊辰戦争。奥羽越列藩同盟成立。 | |