荻野流とは
寛文元年(1661年)に 荻野六兵衛安重が創設した流派である。(開祖・荻野六兵衛安重は家伝の大砲を改良して「早打ち乱玉」という妙技を開発。そののち弟と砲術を研究し、一派を開いたと言われる。)
型や隊列など厳しく、実戦向きの流儀である。
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱において、荻野流砲術家 坂本鉉之助俊貞(さかもとこうのすけとしさだ)が鉄砲隊を率いて鎮圧し、荻野流砲術の評価大いに高まった。
1807年、松山藩士 山本丈右衛門隆由が大阪玉造の荻野流砲術家 坂本孫之進に入門したのが庄内に荻野流が広まるきっかけになった。免許皆伝を得た山本丈右衛門隆由は松山藩砲術師範となり、宗家の荘内藩も指導を受けたため、庄内一円が荻野流砲術一色となった。
そして幕末、戊辰戦争において庄内藩は各地で勝利を収めることになる。本間家の財力で新式の武器を他藩より多くそろえていた優位もあったが、荻野流砲術のはたした戦術的役割も大きかった。
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